肉体という居場所
9月30日(土)、三回目の『心・体・社会』を考えるオンラインミーティングを行いました。
今回のテーマは「居場所」。
参加してくださった皆さんと居場所についていろんな角度から話し合って、最後は、体に関する話で終わりました。
「『心・体・社会』を考えるオンラインミーティング」という名前の通り、体の話もしたいと今までも思っていましたが、今回のテーマは特に体に関わることだと思ったので、そういう話ができてよかったです。
体の話がしたいのは、自分らしく生きていく上で体のあり方がとても重要なものだと思っているからです。
私は、ここ数年は、主にボディワークによってトラウマ症状を改善してきました(まだ途中ですが)。
体の状態が変わることで、トラウマ症状は時間をかけて少しずつ軽くなっていきましたが、それだけでなく、いつの間にか人とのコミュニケーションのとり方や物事の受け止め方、生き方自体までもが大きく変わってきたように思います。
今こうやってオンラインで場を開いたり、普段の生活のなかでも以前より積極的に人と関わったりするようになりましたが、そういうことができるようになったのも、それができる体の状態になってきたからだ、と思っています。
私がボディワークを通してやってきたこと。
それは端的に言うと、自分自身の肉体を自分の居場所とする、ということでした。
最初に受けたボディワークはロルフィングです。
10回のセッションを終えた時、体中にまとっていた鎧のような強張りがほどけていることに気がつきました。
自分の体の状態が、一旦そこでリセットされたような感覚でした。
肩や背中の張りや慢性的な疲労感、呼吸の浅さが改善されたとともに、対人恐怖も軽くなりました。
それ以前は、人と話す時に頭が真っ白になって、声が出なかったり、相手の言っていることが理解できなかったりということがよくありましたが、そういったことも少しずつ減っていきました。
去年から通っているのは、イールドワークと野口整体。
イールドワークでは、自分のなかに安心感を育んでいるような感覚があります。
誰かと一緒に同じ場にいるときに安心を感じるということ。
私は今でもそれが得意ではありません。
だけど、イールドのセッションを受けているとときどき、人と一緒にいることで安らいでいる自分に気づく瞬間があります。
人と一緒にい「ても」安らいでいる、ではなく、人と一緒にいること「で」安らいでいる。
人との関わりのなかでそういった安心感が引き出されたことは、私にとって大きな経験になりました。
そして、安心感とともに気づいたのは、体の感覚です。
今年の年明けごろ、それまでとても弱かったふくらはぎや足裏の感覚が戻ってきたことに気がつきました(感覚が弱いことを自覚したのもボディワークを始めてからです)。
自分の足の温かみ、歩くときの力の入り具合、肌の表面の感覚などが以前より「くっきり」したものになりました。
ヨガや瞑想、スピリチュアルの世界で用いられる「グラウンディング」という言葉があります。
グラウンディングの意味についてはいろんな説明がありますが、私自身は意識と肉体を結びつけることだと解釈しています。
私は、自分の体にしっくりときているときやフィットできている感じがするときに、「あ、いま私、グラウンディングできているな」と思ったりするのですが、この感覚も今年に入ってから感じられるようになりました。
以前より、意識が肉体に収まりやすくなった感じがします。
「肉体を居場所とする」というのはそういった意味です。
そして、そうなったのは、やっぱり自分のなかに安心感が育ってきたからだと思います。
オンラインミーティングのなかでも、「居場所の条件は安心できることだ」という話がありましたが、場だけあっても、安心感がなければそこに留まることはできません。
それは外側のコミュニティや人間関係に関してだけのことではなくて、自分自身の肉体についても同じことが言えるようです。
以上が、私がボディワークを通して、今のところ体感してきたことです。
(野口整体の話は「居場所」というテーマとは少しずれそうなので、今回は割愛します。)
私はもともと、外の世界のどこにも居場所がなかった人間です。
あまりにも居場所がなかったので、最近では、自分にとって必要な場や環境を自分でつくってみようと思うようになってきました。
オンラインでミーティングを開くこともその一環です。
だけど、これって、以前の自分だったらありえなかったことです。
外の世界の何もかもが怖くて不安で仕方ないのに、そんなことできるはずありませんでした。
それができるようになったのは、肉体という居場所ができたから。
内側の安全な場を足がかりにして、外の世界にも居場所をつくろうとしているのが今の私です。
今振り返って考えてみると、そもそもどこにも居場所が見つからなかったのも、自分のなかに居場所がなかったからかもしれません。
人とつながる前に、自分自身とうまくつながれてなかったんだと思います。
自分自身とのつながりは、回復し始めたばかりでまだまだ道のりが長い気がしますが、肉体からのアプローチはきっとこれからも大きな助けになってくれると思っています。
次回のオンラインミーティングは今月末か、来月末にやる予定です。
テーマは『安心感』。
少し荷が重いテーマです^^;
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第三回『心・体・社会』を考えるオンラインミーティング
第三回『心・体・社会』を考えるオンラインミーティングの詳細が決まりました。
孤独と居場所づくり
今日は、『心・体・社会』を考えるオンラインカフェの第2回のミーティングでした。
テーマは「孤独」。
前回同様あっという間に終わってしまいました。
一時間って短いな。
さて、今回のテーマ「孤独」について、個人的に思うことを書いていきたいと思います。
私にとってはとても切実なテーマで、幼い頃から抱えてきたものでもあるし、今でも、ときどき自分の孤独感に飲み込まれて身動きがとれなくなってしまうことがあります。
ただ、同じ孤独でも、時期によってその中身は少しずつ変化してきたようにも感じます。
20代までの頃の孤独感は、どこにも居場所がない、この世界には心安らげる場所がない、人とうまくつながれない、といった感じでした。
30代半ばの今は、ボディワークや心理療法をいろいろやってきた甲斐あってか、自分自身とは多少つながれるようになってきたと思います。
外の世界には安心できなくても、少なくとも自分だけは自分自身を受け入れる "居場所" になろうと、この数年間努力してきました。
そして、その内側の安全な場を足がかりに、外の世界にも自分にとって心地のいい時間・空間や環境をつくろうとしているのが今の私です。
月一のこのミーティングも私にとってはその一環です。
このミーティングが私にとっても参加する方にとっても、一つの居場所というか、足がかりにできるような場として育っていったらいいなと、淡い期待を抱いています。
居場所ってきっとそんなに簡単に見つかるものじゃないし、人とのつながりもそうですよね、たぶん。
ただ人と関わる場、というだけでは居場所にはなりえない。
普段は押し殺してるような自分を出してもよかったり(無理に出さなくてもいいですけど)、本当はこう思ってる、こう感じてるという部分を隠さなくてもいい場所。
安心してありのままの自分でいられる場所。
そういうものが居場所と呼べるような場なんじゃないかなと思います。
ありのままの自分でいられないと人と一緒にいても、人とつながってる感覚ってあまりしないと思うんです。
私は、自分を隠しながら生きていた頃はずっとそうでした。
今でも日中会社にいるときなんかはそうですけど、だからこそ、こういうコミュニティをつくろうと思いました。
そうでもしないと、それこそ孤独なので。
孤独って完全にはなくならないのかもしれないけど、孤独を分かち合うことで人とつながることもできる。
居場所におけるつながりは、孤独感を紛らわすだけのつながりとはまた違うものだとも思います。
とはいえ、期待しすぎも禁物ですが。
次回のテーマは未定ですが、また来月の23, 30日あたりで開催する予定です。
声を出していい社会
先日、『心・体・社会』を考えるオンラインカフェの第一回のミーティングが終了しました。
初めての開催でとても緊張しましたが、始まってみるとあっという間に過ぎ、個人的にはまだまだ物足りないという感覚で終わってしまいました。
話の途中で、社会のどういうところに生きづらさを感じるのか?という問いがありました。それについて時間内に回答することができなかったので、ここに思ったことを書いておきたいと思います。
私が社会に対して感じている生きづらさは端的に言うと、抑圧と同調圧力です。
日本社会にはどこか、全体にとって都合の悪い声を黙殺して"なかったこと"にしたり、あるいは、弱い立場にある人の訴えを冷笑して、まともに取り合おうとしないようなところがあるように思います。
今回のミーティングで取り扱った以下の動画で、服部先生が、アメリカでは ”人とちょっと違う人が声を出していい" という言い方をされていたのが印象的でした。(1:48:35〜)
また、日本で社会的に立場の弱い人たちが「ひきこもって」しまう理由を、「(権力を持っている側に)言っても変わらない感じ」「掛け合いの余地がない感じ」という言葉で説明しています。(0:42:00〜)
服部先生が指摘するように、日本ではマイノリティや立場の弱い人が安心して "声を出せる" 土壌はあまり育っていないのではないかなと思います。
ちょうど最近ある本を読んでいて同じことを考えていました。
荒井裕樹先生の『まとまらない言葉を生きる』という本です。
内容は障害者運動の活動家などの言葉を集めたものです。
その中の一章『「黙らせ合い」の連鎖を断つ』では、自己責任論が他人の痛みへの想像力を削いでしまい、傷ついた人同士がお互いの声を黙らせ合うような負の連鎖が起こりつつあることが指摘されています。
本来であれば、都合の悪い声を黙らせようというのは権力者の思考であって、それはある意味で自然なことですが、著者が「不気味さ」を感じているのは、権力者というよりもむしろ一般の人がそういった論理に依って互いを傷つけ合っていくことです。
(大衆が権威側の論理に染まりやすいのもとても村社会的だなと感じます。)
そして、その結果生じた分断が社会問題を問う〈勇気〉を生み出す基盤を破壊してしまうのではないか、というのが著者の懸念するところです。
「言葉」には「受け止める人」が必要だ。「声を上げる人」にも「耳を傾ける人」が必要だ。でも、「自己責任」というのは、声を上げる人を孤立させる言葉だ。最近では、声を上げた人を孤立させて〈犬死に〉するのを待つような嗜虐的な響きさえ帯びてきたように感じている。
傷ついていたり、困難な目にあっている人が声を上げるには勇気が必要です。だけど、「受け止める人」「耳を傾ける人」がいなければ勇気を出すことはとても難しくなってしまう。
受け止めてもらえないこと、見てもらえないことは無力感を感じさせますし、それによってより深い傷を負うこともあるからです。
著者は「「他人の痛み」への想像力は、人々が社会問題に対して声を上げるための〈勇気〉を育む最低限の社会的基盤だ」と言っていますが、日本ではそういった最低限の基盤があまり機能していないのではないでしょうか。
阿部謹也先生の世間論に倣って言うと、日本人は「世間」=同質性の高い身内の人間関係をとても大切にする反面、その外側にいる「見知らぬ他人」に対してはどこか冷淡というか、無関心な傾向が強いように感じます。
(阿部謹也先生は、専門は中世ヨーロッパ民衆史ですが、「世間」をキーワードに日本社会を鋭く批判する議論を展開しました。)
「世間」の外のことは自分の住む世界とは切り分けて考えているので、そこにいる人たちの助けを求めたり理不尽を訴えたりする声があったとしても見て見ぬふりができてしまう。
上の動画で益田先生が「日本中みんな倫理観がない」と言っていましたが(00:30:00~)、根っこの部分ではこの阿部先生の指摘に近い問題だと思っています。
日本人の倫理観は、どこかローカルな共同体秩序ありきの状況倫理であって、それは自律した個人や個人によって構成される社会といったものを前提としていません。
益田先生が言うように、個人の尊厳や人権といったものが日本ではあまり理解されていないのも、こういったところに起因しているのではと思います。
日本でも「多様性」という言葉だけはいろいろなところで耳にするようになりましたが、実態はさして変わらないままに、最近ではこの言葉が皮肉や冷笑を交えて使われることも増えてきました。
(私自身もいたるところでテキトーに好き勝手使われているこの言葉がとても苦手になってしまいました。冷笑主義者とは違う意味で。)
日本がこの先マイノリティにとって生きやすい社会になるのかどうか分かりません。
なるとしてもまだまだ時間がかかると思います。
私が今の日本にこうなってほしいと望むのは、多様性を尊重するとか受け入れるとかそういったことよりもまずは、どんな立場の人間であっても "声を出していい" という社会的基盤のある状態です。
助けを求めたり、理不尽を訴えたり、社会のあり方に憤ったり、あるいはただ、自分は "ちょっと違う" んだということを人に伝えたり。
そういったことが安心してできるような社会であってほしい。
それは多様性を尊重する社会につながっていく道筋でもありますが、それ以前に、私たちが知らず知らずのうちに押し付け合っている抑圧のスパイラルを断ち切るためにも必要なことだと思います。
第一回のイベント内容について
7/30に開催の第一回『心・体・社会』を考えるオンラインカフェですが、内容は以下の動画の感想会になります。
【コラボ】アメリカで働く心理士服部信子先生と徹底討論、ここが変だよ!日本のメンタルヘルス - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=c57hy0pbc9E&t=2823s
精神科医YouTuberの益田裕介先生とアメリカでご活躍されているトラウマ専門の臨床心理士服部信子先生、そして当事者系YouTuberのリョーハムさんのコラボ動画です。
私はもともと服部先生の動画が好きで、特にポリヴェーガル理論について興味を持ち始めた頃によく観ていました。
服部先生はトラウマを専門に臨床を行われている方です。
私自身のトラウマへの理解は、ポリヴェーガル理論を知ったり先生の動画を観たりして少しずつ変わっていたように思います。
トラウマのことを何も知らなかった頃は、トラウマは心の問題だと思っていました。
だけど、いろいろ勉強したりボディワークで回復を実感したりするうちに、「トラウマは体の問題だったのかも?」と思うようになり、
そのあとソマティックの思想や東洋思想の身体論に触れて、「そもそも心と体は別個のものではなかったのかも?」と思うようになり、
そして、服部先生の動画などでTIC(トラウマインフォームドケア)を知ってからは、「トラウマは心の問題でも体の問題でもあるかもしれないけど、同時に一つの社会モデルなのだ」と考えるようになりました。
心・体・社会はつながっている。
あるいは、つながっているというよりは、一つの総体を別の面から観てみただけの違いに過ぎないのかもしれません。
「自分らしく生きる」ことについて考える上でも、トラウマは避けて通れないテーマだと思っています。
ちなみに服部先生の最新動画もトラウマインフォームドケアの概論です。
https://www.youtube.com/watch?v=yqK0UwrTL2I&t=3993s
こういうトラウマへの理解が日本でももっと一般的に広まればいいなと、思っています。