声を出していい社会

先日、『心・体・社会』を考えるオンラインカフェの第一回のミーティングが終了しました。

 

初めての開催でとても緊張しましたが、始まってみるとあっという間に過ぎ、個人的にはまだまだ物足りないという感覚で終わってしまいました。

 

話の途中で、社会のどういうところに生きづらさを感じるのか?という問いがありました。それについて時間内に回答することができなかったので、ここに思ったことを書いておきたいと思います。

 

私が社会に対して感じている生きづらさは端的に言うと、抑圧と同調圧力です。

日本社会にはどこか、全体にとって都合の悪い声を黙殺して"なかったこと"にしたり、あるいは、弱い立場にある人の訴えを冷笑して、まともに取り合おうとしないようなところがあるように思います。

 

今回のミーティングで取り扱った以下の動画で、服部先生が、アメリカでは ”人とちょっと違う人が声を出していい" という言い方をされていたのが印象的でした。(1:48:35〜)

 

youtu.be

 

また、日本で社会的に立場の弱い人たちが「ひきこもって」しまう理由を、「(権力を持っている側に)言っても変わらない感じ」「掛け合いの余地がない感じ」という言葉で説明しています。(0:42:00〜)

 

服部先生が指摘するように、日本ではマイノリティや立場の弱い人が安心して "声を出せる" 土壌はあまり育っていないのではないかなと思います。

 

ちょうど最近ある本を読んでいて同じことを考えていました。

 

荒井裕樹先生の『まとまらない言葉を生きる』という本です。
内容は障害者運動の活動家などの言葉を集めたものです。

 

その中の一章『「黙らせ合い」の連鎖を断つ』では、自己責任論が他人の痛みへの想像力を削いでしまい、傷ついた人同士がお互いの声を黙らせ合うような負の連鎖が起こりつつあることが指摘されています。

 

本来であれば、都合の悪い声を黙らせようというのは権力者の思考であって、それはある意味で自然なことですが、著者が「不気味さ」を感じているのは、権力者というよりもむしろ一般の人がそういった論理に依って互いを傷つけ合っていくことです。

 

(大衆が権威側の論理に染まりやすいのもとても村社会的だなと感じます。)

 

そして、その結果生じた分断が社会問題を問う〈勇気〉を生み出す基盤を破壊してしまうのではないか、というのが著者の懸念するところです。

 

「言葉」には「受け止める人」が必要だ。「声を上げる人」にも「耳を傾ける人」が必要だ。でも、「自己責任」というのは、声を上げる人を孤立させる言葉だ。最近では、声を上げた人を孤立させて〈犬死に〉するのを待つような嗜虐的な響きさえ帯びてきたように感じている。

 

傷ついていたり、困難な目にあっている人が声を上げるには勇気が必要です。だけど、「受け止める人」「耳を傾ける人」がいなければ勇気を出すことはとても難しくなってしまう。

 

受け止めてもらえないこと、見てもらえないことは無力感を感じさせますし、それによってより深い傷を負うこともあるからです。

 

著者は「「他人の痛み」への想像力は、人々が社会問題に対して声を上げるための〈勇気〉を育む最低限の社会的基盤だ」と言っていますが、日本ではそういった最低限の基盤があまり機能していないのではないでしょうか。

 

阿部謹也先生の世間論に倣って言うと、日本人は「世間」=同質性の高い身内の人間関係をとても大切にする反面、その外側にいる「見知らぬ他人」に対してはどこか冷淡というか、無関心な傾向が強いように感じます。

 

阿部謹也先生は、専門は中世ヨーロッパ民衆史ですが、「世間」をキーワードに日本社会を鋭く批判する議論を展開しました。)

 

「世間」の外のことは自分の住む世界とは切り分けて考えているので、そこにいる人たちの助けを求めたり理不尽を訴えたりする声があったとしても見て見ぬふりができてしまう。

 

上の動画で益田先生が「日本中みんな倫理観がない」と言っていましたが(00:30:00~)、根っこの部分ではこの阿部先生の指摘に近い問題だと思っています。

 

日本人の倫理観は、どこかローカルな共同体秩序ありきの状況倫理であって、それは自律した個人や個人によって構成される社会といったものを前提としていません。

 

益田先生が言うように、個人の尊厳や人権といったものが日本ではあまり理解されていないのも、こういったところに起因しているのではと思います。

 

 

 

 

日本でも「多様性」という言葉だけはいろいろなところで耳にするようになりましたが、実態はさして変わらないままに、最近ではこの言葉が皮肉や冷笑を交えて使われることも増えてきました。

 

(私自身もいたるところでテキトーに好き勝手使われているこの言葉がとても苦手になってしまいました。冷笑主義者とは違う意味で。)

 

日本がこの先マイノリティにとって生きやすい社会になるのかどうか分かりません。
なるとしてもまだまだ時間がかかると思います。

 

私が今の日本にこうなってほしいと望むのは、多様性を尊重するとか受け入れるとかそういったことよりもまずは、どんな立場の人間であっても "声を出していい" という社会的基盤のある状態です。

 

助けを求めたり、理不尽を訴えたり、社会のあり方に憤ったり、あるいはただ、自分は "ちょっと違う" んだということを人に伝えたり。

 

そういったことが安心してできるような社会であってほしい。

 

それは多様性を尊重する社会につながっていく道筋でもありますが、それ以前に、私たちが知らず知らずのうちに押し付け合っている抑圧のスパイラルを断ち切るためにも必要なことだと思います。